02 Interview
YASUMASA YONEHARAインタビュー

 

Part.1 東京カルチャー仕掛け人 米原康正
YONE-Changでお馴染みアーティスト、写真家、編集者の米原康正さん。1990年代半ばに生まれた、東京・渋谷発コギャルブームの仕掛け人であり、また原宿ストリート・ガールズを世の中に広めた中心人物である。また写真家としてチェキを片手に、女の子たちのエロ可愛い写真を撮り続け、編集者としては、東京発カルチャーを仕掛ける第一人者として世界的に活躍。常にアンテナを張り巡らせ、先を見続ける米原康正さんの、これまでの軌跡と東京カルチャー誕生の話をお聞きしました。 (Interviewer : KANA YOSHIOKA)

―― どんな子供だったんですか?

米原康正 こうしたら大人はこう動くとか、大人に好かれるのと、仲間に好かれるのと、女の子に好かれるのは全然違うから、それをちゃんと振り分けてやるようなズルい子供でした。幼稚園の頃から、変だったのよ(笑)。小学生のときに、ちょうど連合赤軍の事件とかがあって、こうやったら警察強くなるのにとか考えていたり。だから同級生は周りにいっぱいいても、僕自身が友達と思えるような人がいませんでした。中学くらいから洋楽を聴き始めたんですけど、洋楽を聴いている人間なんか学年に何人かしかいなかったから。なのでクラスではワーワー中心でやっているんだけど、みんながワーワー言い出すと1人外れるみたいな。

―― 洋楽はどんなものを聴いていたんですか。

米原康正 その当時は雑誌で情報を知るしかなくて、そのメインで読んでいたのが『MUSIC LIFE』。そのあとに『MUSIC MAGAZINE』や『ROCK MAGAZINE』とかを買い出すんだけど、その頃は洋楽を紹介している雑誌はまだ少なくて、近くの本屋さんで買えるのが『MUSIC LIFE』しかなかったの。基本的に僕が心がけていたのが、レコードレビューで5つ星はちゃんと聴いて、レビューの星が一つしか付いていないものを意識的に聴くようにしていた。ザ・ストゥージズの『ロー・パワー』って、邦題が『淫力魔人』なんだけど、引力の「引」が、淫乱の「淫」なのよ。僕は面白いなと思ってその作品を買ったんだけど、『MUSIC LIFE』では思いきり星一つで散々書かれていて。だけど、今なんか『ロー・パワー』はめちゃくちゃ評価受けているじゃない。だからその頃から、星一つしかついていないような誰も理解できないようなものが面白いなって……それが今の自分にも繋がってくるんだけどね。それで自分がすごいのが、そういう人たち(一つ星レビューのアーティスト)に会ったら、友達に絶対になれると思っていたの(笑)

―― そのときはどんな一つ星アーティストを聴いていたんですか?

米原康正 「セックス・ピストルズっていうすごいバンドがイギリスでデビューして」とか、『MUSIC LIFE』に小さく写真が載っていて、ちょうどそのときにニューヨーク・パンクしか日本に入っていなくて、情報からパティ・スミスとか、テレビジョンとかを聴くんだけど、個人的にはニューヨーク側のラフなファッションな感じが好きじゃなくて。僕としてはもっとカッコよくてストレートな方が好きだったから、リチャード・ヘル&ヴォイドスって、マルコム・マクラーレンがこれを見てセックス・ピストルズを作ったっていうバンドがいるんだけど、CBGBの周りでやっているバンドは、リチャード・ヘルくらいしか僕は好きじゃなかったの。そういえば、ニューヨーク・ドールズもCBGBの流れで聴いたりしていたけど、星一つだったんだよ(笑)。それでリチャード・ヘルに引っかかり、ニューヨーク・ドールズに引っかかり、セックス・ピストルズの写真を見つけて「早くこの音を聴きたい!」って。だけど、どこにもないから輸入盤屋さんに注文をして、『勝手にしやがれ!!』を買って「すげえ!」って。

―― メインストリームも聴くけど、その反対にある音楽に興味があったということが米原さんらしい感じもします。当時はインターネットもない時代ですし、アンテナを張り巡らし、自分の勘が頼りでもありますね。

米原康正 そうそう。だから間一髪って感じだよ。音を聴き比べして、「こいつらは、このバンドの仲間かな」とか。この音が好きな人は、この音が好きかもとか。たいていレーベル系とかで分けていくじゃない。僕は本当にただ雰囲気で選んでいたから。少ない情報をとにかく寄せ集めて、割と大きい世界観を作り上げていた感じですね。……だけど、まったくモテなかったけど。

―― モテなくても別にどうでもいい、と思っていたのではないですか?

米原康正 いやモテたかったんだけど、中学高校の頃は難しい本を読んでいたら「モテる!」と勘違いしていたの。フランス文学が好きで、澁澤龍彦とかを読んだりしていて。あとは種村季弘だとかを読み出して、それを読めばモテると思って高校生の頃には最高潮に読んでいたのに、最高潮にモテなかった(笑)。あと政治をやっていればモテるとか思っていて。叔父さんが社会党のお偉い人だったので、デモに誘われて行ってたんだけど、そのときに「安保反対! スケスケ賛成!」って、ちょうどシースルーが流行りはじめた頃で、「スケスケ賛成!」って言っているあそこだけに引っかかって。シースルー着た女の子が「スケスケ賛成!」って言いながら通り過ぎるところを見て、「いいな~、政治って」って(笑)。だけど政治がモテる、文学がモテる、音楽がモテる……すべてなんの意味もない(笑)。ヤンキーしかモテない。

―― 米原さんのインテリな部分は学生の頃からですね。大学で東京へ来られたのでしょうか?

米原康正 そうです。だけど予備校1年生の頃に完全にパチンコにハマり、すべての人生をパチンコに費やしたので学力が落ちてしまったんですよ。それで途中で家出をしたんですけど、学習院大学を受けて法学部に入りました。でね、東京であればパンクがウケると思っていて、1970年代最後の頃で僕はパンクのあとのパワー・ポップと呼ばれた音楽が好きだったから、赤のパンツに緑のシャツとか。だけど学年にそういう格好をしている人は2人くらいしかいなくて、「また、少数派?」みたいな。雑誌では「ツバキハウスでパンクナイト!」とか書いてあって、まるで東京はパンクだらけだと思ってたのよ。だけど世の中サーファーだらけじゃない。サーファーじゃないとモテないよ、みたいなことを女の子に言われて、すぐにサーファーだよ(笑)

―― サーフィンやっていたんですか! しかしパンクからサーフィンとなると、世界が変わったのではないでしょうか?

米原康正 変わる、変わる。サーフィンは10年くらいやってたよ。毎年バリにも行ってたし。それでサーフィンをやりながら「ナイロン100%」って、渋谷センター街の奥の方にあった店でバイトしていたんだよね。「ナイロン100%」はニューウェイヴの人たちの溜まり場で、高木完、久保田慎吾、戸川純と戸川京子とがよく遊びに来ていたのよ。その頃、僕の奥さんがお客として店に来てたんだけど、「ニューウェイヴの人たちがいる店に、1人だけロン毛でチャラそうなサーファーがいる!」って思っていたらしい(笑)。だけどパンクを好きになった頃に、「パンクは別にスタイルじゃなくて態度だ」と思っていたので、別にサーファーだろうが、中身が変わってなければいいじゃんって思ってたの。だからニューウェイヴの店で働きながら、海に行くとオフコースとか山下達郎とかを聴いてたもん。

―― だけれどもサーフィンの道を歩まず、文化的な方に身を置いていきますよね。

米原康正 結構真面目にサーフィンをしていたんだけど、サーフィンばかりをしているとサーフィンが主な生活を追い求めたくなって社会生活できなくなってしまう感じがして。28歳くらいのときに、このまま続けるかどうしようかなと思ったときに辞めたの。本気でサーフィンを続けていこうと思ったらサーフショップのオーナーか店長しかないかなと思って、だけど自分はそこまで根性ないしと思って、それで夜の波に乗ることにしました。

―― (笑)。「夜の波」……パンチラインきました!

米原康正 もともとクラブは大好きだったので、そこを中心に動こうと。もう全部行ってた。最初は「ツバキハウス」から行き始めたんだけど、六本木に「ジル」とか「パチャ・クラブ」っていうクラブができて、ウメちゃんって重要人物がいたりして。「ツバキハウス」はすごく人気のあるクラブだったよね。新宿にあったから、文化服装学院の人たちや二丁目の人たちも来ていて、オシャレな人たちが多かったのよ。ゲイの人たちも多かったから、僕もオネエ言葉になったりしたし、ニューウェイヴが流行っていたから黒い口紅を塗ったりして。だけど一週間で似合わないと思ったけどね。

―― 出版社時代はどのようなお仕事をされていたんですか?

米原康正 80年代はライターをしていたの。芸能人のライターをやっていて、岩城滉一さんのインタビューを一度やった時、岩城さんが気に入ってくれて、その時期は岩城さんのインタビューをほぼ僕がやるようになったのよ。岩城さんは「チームイワキ」っていうレースチームをやっていたんだけど、それに呼ばれて六本木に飲みに行ったり、一時期はほとんど岩城さんと行動をしていたときがありました。でね、モテるってことでひとつわかったことがあったんだけど、僕が岩城さんの真似をしたって、絶対にモテないの。そこからズレたことをすると、そうでない人を拾えるっていう。

―― 岩城さんとは違うキャラクターでいこう、ということですね。

米原康正 岩城さんではなく、外すとモテるみたいな。そこはすごく勉強になった気がします。雑誌編集の仕事していると「どうやったら女の子にモテるのか!」みたいな企画をしなくちゃいけないときとかあるじゃない。僕の答えとしては「これ見ない方がいい。書いてあることを全部無視したらモテるぞ」みたいな。だいたいモテない編集者が企画して、モテないライターが書いててって、モテるわけないじゃん。だけどそういった記事を書いているうちに、自分で本を出したら面白いことができるのにと思うようになっていったんです。

―― しかしそこで男性誌じゃなくて、女性誌を仕掛けましたね。

米原康正 基本的に自分が好きなものが、女子にウケるというのもあったんだけど、ニューウェイヴとかも女子うけするでしょう。ライヴとかも男子ばっかりのところは行かないし、男性誌で一切女子の匂いがしないのに、男たちが女子の企画をやっているのは自分的にはちょっと苦手で。だから女子の本を作るとか、女子の方がやりやすかったのかな。

―― そこから『egg』や『smart girls』などで、ひとつの東京ガールズ像を生み出したと思いますが、『egg』で女子高校生に目をつけた理由は何だったのですか?

米原康正 東京に出てきて思ったのが、実は東京出身の人って少ないってことで。東京の人たちはあまり目立たなくて、東京で目立っている人たちは、田舎から出てきた人たちの方が多い。東京出身で都内に住んでいて人って奇抜な格好とかしなくて、普通のオシャレだったりする。だけどメディアが目立つ人たちだけを扱っていくから、それを見た田舎の人たちが真似をして、田舎の方がどんどん派手になっていく状況だったりしたの。その中で、『egg』に出ていたような、東京にいた女子高校生たちのルーズソックスにミニスカートって格好は、ものすごく目立つわけでもなく、学校に通う女の子たちの着こなしのひとつだったじゃない。だけど僕は制服のスカートを折って着るとか、すごく斬新だと思ったんだよね。それで当時、後のコギャルと呼ばれる女子高校生と遊んでみて思ったのが、彼女たちは街では目立っていても、メディアには取り上げられることがなくて、メディアに女子高校生が出るときは、お下げに長いスカートを履いてっていう女子高校生しか出てこない。ミニスカートを履いている女子高校生の方が、街では目立っているのに、何故彼女たちをメディアで出さないのかなって。そんなことを思っていたときに、女性誌を作りたいと相談されて、それでこういう女子高校生がいるよって『egg』を作り出したの。

―― 街にいるリアルな女の子たち=女子高校生をメディアで取り上げたわけですね。

米原康正 僕からすると女子高校生ってアウトサイダーなんですよ。日本って男社会で、オジさん社会だったりするじゃない。オジさん社会からはみ出ている人たちって、実は女子高校生くらいしかいないって思っていて。今はだいぶ変わりましたけど、当時は何かをしたければ会社に属さないといけないとか、例えば音楽を出したかったらレコード会社に持っていかないといけなかったり。会社に属しているオジさんたちを納得させないといけないわけだから、その過程で話が変わってしまった出来事をたくさん見てきたんですよ。バンドとかも、インディのときはすごく調子良かったのに、レーベルに入ると突然「あれ?」って落差が大きくなる。そういうのがすごく僕は嫌で。だから『egg』では、生のままを、生のままで出すことをしたかったんだよね、

―― タマゴ(エッグ)のままいこうみたいな。

米原康正 ちょうど1995年に『egg』をプロデュースしたんだけど、モデルとかじゃなくて、街にいる僕の気になっていた普通の女子高生を紹介した。当時のヒップホップシーンもスチャダラがすでに人気があって、「ありのままがいい」みたいな感じだったんだよね。『エロゲリラ』って、スチャダラのアニとシンコ、脱線トリオ、シンゴスターとで、僕がエロい写真を撮ったら、夜みんなでそれを眺めるって言うだけのことをして、それを『egg』でページにしたりしてたの。それを見た海外のアーティストが日本にやってくると、僕のところに来て大騒ぎするんですよ。僕がコギャルとも近かったし、フューチュラ2000を、新宿でギャルが集まっていた『キングストン』ってレゲエのクラブに連れて行ったこともありました。それと可愛手翔ちゃんっていう風俗のアイドルがいて、僕はよく一緒に遊んでいたんだけど、ある日、可愛手翔ちゃんのデニムにフューチュラが2時間くらいかけて絵を描いたの。それで反対側が余っていたから、僕が漫画みたいな絵を描いたことがあります。その当時の培った海外の仲間たちとは、未だに繋がっています。

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Part.1 東京カルチャー仕掛け人 米原康正
Part.2 東京カルチャー仕掛け人 米原康正

Profile

米原康正 YASUMASA YONEHARA

1959年、日本熊本県生まれ。アーティスト、写真家、編集者。東京ストリートな女子文化から影響を受けたその作品は、雑誌などメディアの形をして表現されることが多く、90年代以降の女子アンダーグランドカルチャーの扇動者でもある。早くから中国の影響力を強く感知し、そこでいかに日本的であるかをテーマに活動を展開、現在中国のSNS、微博のフォロワー280万人。編集者からカメラマンに、さらに2017年より前髪をテーマに写真に自らがペイントした作品を発表。2年間で10回以上の展覧会を国内外で開催し、大好評を得る。若いアーティストたちのキュレーション活動も精力的に行い、+DA.YO.NE. というコラボレーションブランドも始動した。

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